2017年3月1日水曜日

高山不動尊から龍穏寺・1/26

【龍ヶ谷山中の夫婦岩】
下段左:稚児の墓付近の旧道より飯盛山を望む
下段右:野末張展望台の標柱にはスカイツリーの高さと同じ標高634mと刻まれている。

今回は奥武蔵研究会の山行だが、奥武蔵ハイキングとしては一般的なコース。じつはPTA時代にお世話になったママさん達も子供達が手を離れる頃となったので、そろそろ健康に気を遣うお歳頃。ハイキングに興味を抱いたようで、まずは奥武蔵研究会の山行へご同行という話になった。が、当日は前日にインフルエンザかも…という連絡があって参加したのは、年齢を重ねて厚かましくなったと宣うTさんのみ。(けして、厚かましくはありませんが…)西吾野駅には、私とTさんの他に13名の方にお集まり頂いた。そして恒例の自己紹介の後、9:10には駅を後にスタートした。

最近は高齢者のハイキンググループが多く、平日とはいえ行き交う人も少なくない。スタートがたまたま一緒であったグループに、どこに行くかと問えば高山不動だという。「それなら同じですね」と同行しながら歩いて行くと、後ろから仲間を呼ぶ大きな声。どうやら高山不動ではなく、子ノ権現へ向かう予定だったらしい。とんだハプニングだが、別グループの事とばかり笑えない。仲間と談笑しながら歩くのも結構だが、常に緊張感を携えながら歩いてほしいもの。西武秩父線の高架を潜り、登山口となる北川に架かる橋の袂の石道標を横目に見て住宅地の合間を抜ける。そして山道となるが、メンバーの皆さんは通い慣れた道のはずなので、一人先行して石地蔵がある赤坂分岐で待つことにする。すると、Tさんが萩ノ平茶屋跡辺りで追いついて来て「皆さんペースが速いって言ってますけど!」と…久しぶりに説教をくらう。

井尻へ向かう赤坂の分岐には石地蔵が建立され、脇に高山不動尊参道の古い道標も並んでいる。ここから不動堂までは比較的なだらかな道だ。この石地蔵で参加者全員を待ち、10分ほど休憩した後に西ノ山神様を経て不動堂に到着したのは1040のことであった。昼食は関八州見晴し台と決めていたので、いくらのんびり歩いたところで1120と早目のランチタイムになるのは致し方ない。冬の関八州見晴し台は、両神山は勿論、赤城山や男体山までスッキリと望むことができる。少し早いと思った昼食だが、見晴台には数名のハイカーさん達が陣取り、すでに食事を摂っていた。Tさんは昨年富士山に登頂しただけで、山に興味を抱きつつも全くの素人。PTA時代の思い出話に花を咲かせるが、しかしそれも、かれこれ10年近く前のことである。思えばバザーや周年行事などで協力いただいた役員さんたちとは共有した時間が長く、現在でも当時の正副校長先生を交えて年に数回食事会を開催している。

そんな昔話をしていると、何やら周囲が騒がしい。ふと視線を向けると枯草に炎が燃えている。どうやらご年配のハイカー夫婦が、火のついたストーブを転がしてしまったらしい。大勢で消火作業にあたったので無事に鎮火したものの、山火事にでもなったら洒落にもならない。この時期に食べる温かいカップヌードルは確かに美味しいが、サーモス500mlがあれば事足りる。空気の乾燥したこの時期は、無用のリスクは避けた方が賢明だ。さて、昼食後は関八州見晴し台からは堂平、稚児ノ墓を経て飯盛山へと向かう。関八州見晴し台は別称を関場ヶ原、高山不動尊の奥ノ院という。しかし、奥ノ院とするべき場所は他にある。確かに『新編武蔵風土記稿』高山村項には「高山不動境内の図」が添えられていて、山上に「元不動」も示されているのだが、必ずしも古代不動堂があった場所とは限らない。この絵図には「鳥居跡」(現在の鳥居茶屋付近)から少し登った所に宝篋印塔が描かれている。この宝篋印塔が不動堂脇に現在あるものならば、かつて建立されていた場所は丸山となるだろうが、関八州見晴し台の奥ノ院不動堂の建立されている場所にあった可能性もある。

いずれにしても、絵図だけでは「古代不動堂がどこにあったのか?」という疑問には答えられないが、会報『奥武蔵』387号・388号に於いて「消えた古代寺院の謎を追う」と題して堂平の位置を明らかにしている。同様に、二つある飯盛山についても407号に「飯盛山山名考」としてある掲載してあるので、興味のある方はこれらを参照していただければと思う。2017版にて全面改訂となった昭文社『山と高原地図22奥武蔵・秩父』にも、当然これらは反映されている。今やこの山域にはやたらと山名標識や地名を記したテープが目立つようになってしまったが、根拠がなければ容易く地図には掲できるはずもない。数年前まで冬場は眺望のあった飯盛山東の展望台も、すでに木々が育ってしまいベンチも無用の長物となってしまったようだ。そして大平尾根へは飯盛山東となるグリーンラインのガードレール切れ間から降るのだが、東斜面から山頂へと向かう道もつけられている。数名が山頂へと向かったので、ガードレールの内側で休憩しながらそれを待つ。

ガードレールから続く道はかつての旧道で、少し降って飯盛峠から来た秩父街道と合流する。そしてその先でさらに林道梅本線と交わる。林道からは飯盛山の山容が手に取るようだ。そして花ノ木峠から麦原方面にも道が続くが、秩父街道はじつは林道右下に並行して走っているのだ。つまり左手の道は旧道ではないのだが、歩きやすいハイキング道には違いない。もっとも、麦原方面に向かうつもりもない場合、やはり林道を歩いてしまう。しばらく車道を行くと野末張(のすばり)展望台へと至るが、定期的に整備されているので眺望は良い。12:00に関八州見晴台を出て飯盛山まで40分。そしてこの野末張展望台まではさらに30分といったところ。この展望台からは大築山や馬塲、そして慈光寺方面が一望できる。少し休憩した後、林道を離れた秩父街道は、旧道本来の趣を取り戻して龍ヶ谷へと向かう。今回のコースは初心者向けだが、勿論このまま終わるわけがない。参加者に羽賀山山頂に登りたいという人がいたので、ニノホリキリから道を逸れて立ち寄ってみる。前回、山名標示板を設置したそうだが、山頂にそれらしいものは見当たらなかった。標示板を付ける人がいれば外したい人もいる。そもそも道標ならともかく他人様の土地のはずだから、山名標示に拘る理由が分からない。

ヒグラシ岩は羽賀山南の目立つ岩で、向かいの高山街道(四寸道)が走る尾根からも眺めることができる。フリークライマーは「龍穏寺の岩場」と呼び登攀もされているが、「黒山聖人岩」程の知名度はない。「この巨岩に夕日があたると夕暮れ時で、山仕事をやめて帰宅することからその名がある」とは、龍ヶ谷在住の小沢さんからの受け売りだが、所在する場所の地名は夫婦岩。ならば、その夫婦岩を探索しようと昨年残雪の頃に探索したが見つからず、その後、訪れる機会を失ったまま今回の山行となってしまった。だから今回の山行にはその夫婦岩を探索するという目的も含まれていた。幸いにしてヒグラシ岩南側には古い林業作業道が続いている。前述の小沢さんの話では「岩の上で昼寝をしているうちに暗くなってしまった」とのことだったので、まずは張り出した支尾根を縫う作業道を辿って降ることにする。すると夫婦岩はすぐに見つかった。前回も探索しているので、所在地もかなり絞り込まれていたからだ。岩の高さは6mほどで二つ並んだ岩には1mほどの狭間がある。地名になるほどの岩なので、かつては周囲が開けていて目立つ存在だったのであろうが、現在では鬱蒼とした杉林の中に佇んでいた。

そしてすでに時刻も1430となっていた。作業道はオオダイラから来た作業道と道を併せて梅本林道に飛び出す。そこは男滝のやや下流で、龍神伝説の残る龍窟も遠くない。だが、龍穏寺でトイレ休憩した後にすぐに上大満バス停へと向かうことにする。龍穏寺からバス停までは30分ほどだが、悠長に歩いているわけにもいかなかった。この路線バスの本数も年々減らされているし、それが平日となれば尚更だ。そして1530のバス到着5分前にバス停へと辿り着き、無事に解散することができた。

参加された皆さん、どうもお疲れ様でした。奥武蔵再発見シリーズは続きますので、またの参加をお待ちしています。

2017年1月25日水曜日

日地出版『奥武蔵』昭和47年版より


文章だけだとよく分からないと思うので補足します。軍畑から高水山の尾根へのラインは国立公園ですね。山と高原地図『奥多摩』では軍畑駅~高水不動~上成木バス停~小沢峠のコースが掲載されていますが、松ノ木峠と伏木峠はコースどころか峠名すら見当たりません。しかし、この地図を見る限り、主に伏木峠が峠越えの道として使われていたようですし、小沢峠飯能市側の埼玉県道53号青梅秩父線もまだ完成していなかったようですね。

2017年1月13日金曜日

軍畑駅から旧鎌倉街道小沢峠越え・12/16

【高水山参道より 小沢峠を望む】
下段左:入平集落・滝上辻に建立された出羽三山百観音巡拝塔(子のごんげん、秩父道を刻む)
下段右:小沢峠道に架けられた橋と小名彦命の祠

明けましておめでとうございます。本年も宜しくお願い致します。
昨年末は地図校正と会報編集などに追われ、ここに山行報告を書いている余暇も無く申し訳ありませんでした。とは言え、登山の起承転結の最後は必ず報告で締めなければなりません。まあ備忘録のようなものなので気長にお付き合い願います。さて、前々回は高水三山に足を向けましたが、今回も軍畑から高水山浪切不動尊を目指しました。またかよとお思いでしょうが、青梅方面から飯能、名栗へと続く旧道を確認することと、不動尊前に狛犬のごとく建立された山犬像が心に突き刺さっていたからです。と言うのも、山犬はニホンオオカミとされてはいますが、御岳山は勿論のこと、この高水山常福院でいただく「大口真神」の御札はどう見てもオオカミには見えない。それどころか、立体的に削りだされた山犬像の耳は大きく垂れているのです。日本犬は耳がピンと立っているのが特徴で、それはオオカミも同様です。では、この未だに修験道の趣を残す不動尊に建立された山犬は、どこから来てどこに消えたと言うのでしょうか。

7:45JR青梅線軍畑駅をスタートし、踏切を渡って都道193号線へと降る。そして路傍の「高水山参道」の石標を右に見て榎木峠方面へと向かった。軍畑(いくさばた)の地名の由来は、鎌倉以来の豪族・三田氏と後北条家が多摩川を挟んで対峙したことによる。三田氏は後北条家との決戦を予期し、多摩川を見下ろす尾根上に築いた辛垣(からかい)城(二俣尾城)を拠って籠城戦を挑んだ。そして両軍が激しく交戦したのが多摩川河畔の軍畑で、そこには10mほどの高さの鎧塚があり、激闘の末に亡くなった戦死者や武具を埋めたとされている。この闘いについての経緯を述べることにするが、少し長くなるので歴史に興味のない方は読み飛ばしていただきたい。 天文十五年(1546)河越の戦いで後北条家に大敗した関東管領山之内上杉憲政は上野国平井城に落ち延びたが、一度失墜した権威を取り戻すことが出来ずに、臣下にあたる長尾景虎を頼って越後へと向かった。そしてその際、憲政の配下にあった武蔵の古豪・三田氏も早々に主家を見限り、後北条家の軍門に下ってその傘下となった。だが永禄三年(1560)に捲土重来した憲政は、景虎に奉じられて再び関東へ進攻。関東の諸将を糾合して、後北条家の本城である小田原城を攻撃した。そして翌年三月になると、長尾景虎は憲政から関東管領職及び上杉の名跡を移譲され、鶴岡八幡宮で華々しく就任式を挙行した。後の上杉謙信が、関東の覇者となった瞬間である。

離合集散は戦国の世の習い、三田氏も室町幕府の定めた新管領に従っただけなのだが、有名無実化した関東管領が越後へ帰ってしまうと、やはり実質的な関東の主は強大な軍事力を誇る後北条家で、小豪族たちはその力の前にひれ伏すしかなかった。織田信長が常備軍団を揃えるまでは、半農半兵が常識で軍事行動が行われるのは農閑期に限定されていたのだ。だから越後軍は農閑期となると雪の降る前に碓氷峠を越え、冬将軍の如く関東にやって来て覇を唱えた。言わば略奪を兼ねた出稼ぎ軍のようなもので、名ばかりの関東管領が居座っている間、巧く立ち回っていなければならなかった。いわゆる旗色を窺うと言うやつだ。しかし、どうしたことか三田氏が後北条家に再び帰属することはなかった。 永禄六年(1563)七月、当時まだ滝山城主であった北条氏照は、青梅から多摩川上流にまで支配が及んでいた勝沼城主・三田綱秀を討つために出陣。一方、迎え討つ綱秀は居城の勝沼城から山上の要害・辛垣城に拠って籠城戦となった。両軍は多摩川挟んで衝突したが兵の多寡には抗えず、やがて氏照手勢の員野半四郎らが多摩川を渡河すると、 内応した塚田又八が火を放ったため辛垣城は落城。綱秀は岩槻城の太田資正を頼って落ち延びたものの、再起が叶わぬことを悟って自刃した。

永禄二年(1559)に後北条氏が作成した『小田原衆所領役帳』八王子衆には三田綱秀の名が見えるのだが、隣接する入間・多摩の豪族の大石定久は、娘(比佐姫)の婿養子として氏照を迎え入れ、滝山城と武蔵国守護代職の座を譲って隠居した。以前、三田氏が吾野借宿神社を修繕した棟札があったと書いたことがあるが、岡部氏や加治氏を臣下としていたことを見ても、現在の飯能市にまで影響力を及ぼす有力豪族であったことは間違いない。或いは力関係で拮抗していた大石氏が後北条家との関係を確たるものとした事で、どこかに焦りを感じていたのかも知れない。滝山城と勝沼城の直線距離は12Km弱しかなく遠望できてしまう距離にあるので、必然的に両者は誼を通じていたはずである。だが前述の通り、上杉謙信がその翌年に小田原城を攻めた際に、あろうことか三田綱秀はこの攻撃に加わってしまう。氏照は十八歳で大石家に婿入りしたとは言え氏康の三男なので、面子を潰された後北条家が激怒したのも当然だろう。そして永禄元年(1558)、籠城して援軍を待つのも当時としては定法ではあったものの、余りに勝沼城の防備が脆弱すぎる為、綱秀は詰めの城として築いた「西の城」へ移った。これが勝沼城の西方にあたる辛垣城で、雷電山に連なる辛垣山は複雑な地形をした要害であった。

辛垣(からかい)という地名については、宮内敏雄氏の『奥多摩』によると「辛垣とは空峡…涸沢のカラと、沢をカヒという発音、たとえば丹波山村の貝沢や陣場山南麓の貝沢の例を考へて―」とある。峡の字を谷とすると鎌倉方言ではカイと読む、つまり空谷という意味であろう。複雑な地形を利用した山城は瘠せた尾根が攻め手の数を限定し、寡兵でも守備しやすく、いざとなれば脱出もしやすい。そうして謙信の援軍など望めない壮絶な戦闘の後、三田一族は悲運の最期を遂げた。だが、時代はまさに戦国の世となり血みどろの闘いは繰り返される。永禄十二年(1569)に武田軍が小田原城攻めに向かう際に滝山城を攻撃し、この時三ノ丸まで攻められたことのある氏照は防御面で不安を抱いていた。そして天正十五年(1587)に豊臣秀吉から「関東惣無事令」を突き付けられた際に、天険の要害に築いた八王子城へと本拠地を移した。その三年後には遂に天正十八年(1590)には太閤秀吉の小田原征伐が始まり、後北条家の有力支城である松井田城、鉢形城、松山城を次々と陥落させた上杉景勝・前田利家・真田昌幸ら北国軍団が八王子城に襲いかかった。城主の氏照以下家臣は小田原本城の守備に駆り出され、八王子城内には城代の横地監物吉信、家臣の狩野主善一庵、中山勘解由家範らわずかの将兵と領民が立て籠る。しかし内応者に秘密の間道を暴露され凄惨な末路を辿って八王子城は落城。城主・氏照は小田原開城の際に、秀吉に強硬な主戦論者と見なされて切腹を命じられた。若き日に三田氏を屠った氏照は、この時すでに齢五十となっていた。

都道193号線に出て北上すると傍らに不動尊を見てすぐに平溝橋の分岐へと至る。そしてこの平溝集落が辛垣城の大手口で、西木戸という地名が今も残されている。旧鎌倉街道山ノ道は八王子城下を抜けて梅ヶ谷峠を越え、二俣尾から松ノ木峠、さらに小沢(こさわ)峠を経て名栗へと向かっていた。つまり辛垣城は街道を睨む高台に築かれていていたわけだ。氏照は辛垣城攻略の際に滝山城ではなく浄福寺城(由井城)を陣城としたとされるが、近くに鎌倉街道と言う軍事道があるのだから必然であろう。後に築かれた八王子城も当然ながらこの街道を押さえるものであった。芳賀善次郎著『旧鎌倉街道探索の旅 山ノ道』では峠に石仏が建立されていることと佐藤塚が建立されていることから、その道筋は松ノ木峠を経て成木街道の大指集落へ繋いでいたとしている。だが取りあえず、この分岐は高水山参道を目指して高源寺へと向かうことにしよう。説明が長すぎて半日くらい過ぎ去ってしまった感じがするものの、時間にしたら軍畑駅から歩いてわずか30分ほどで高源寺へ着く。その入口分岐には「高水山登山口」の石標が並んでいた。寺脇に鎮座するのは妙見様で、星之宮神社と称するのは神仏分離令の爪痕である。

登山口から民家までは舗装路が続くが、山道にはいると目前に大きな堰堤が聳え立つ。そして例の擬木階段が続いているが、階段の左脇に旧道が続いているのを見つけてそちらを行く。だがこの旧道も堰堤上部で登山道と合わさるので、わざわざ探す必要もないだろう。丁目石は古いものと比較的新しいものが混在している。中程の「軍畑青梅町」と刻まれた丁目石の目前にあるのが「清浄の滝」である。そしてここから少し標高を稼いで、見晴らしの良い尾根に登ってしまえば不動尊まではわけもない。雰囲気はまあまあといった感じの平溝参道であったが、940には浪切不動尊へと到着した。そして再び件の山犬像を観察すると、尻尾をクルリと巻いている。オオカミは尻尾がスッと伸びているのだが、日本犬は巻き尾を特徴とする。そしてお犬様の肖像、大口真神のお札に巻き尾で描かれてものもないはずだ。ますます興味をひく山犬像だが、じつはこの不動尊、手水舎の大天狗やカラス天狗といった造作を見ても、かなり修験道の趣がある。全盛期には御岳山の大口真神と同様に、お犬様の神札が修験の行者を通してあちこちに配布されていたのだろう。言わば行者公認の山犬像とみても良い。とまあ、人知れず留飲を下げた後は、成木街道への参道を降り再び旧鎌倉街道に合流して小沢峠を越えれば良い。だが時間もまだ早いこともあり、惣岳山の青渭神社奥ノ院へと足を伸ばしてみることにした。

しかし帰路は小沢峠越えが前提なので、御岳駅へと向かう周遊コースを使ってピストンするのも馬鹿らしい。ならば地図読みを兼ねてヒヨドリ越えよろしく谷を渡り平溝林道を跨いでしまおうと思い立つ。幸いにして1/25000地形図には破線ルートが記載されている。勿論、冬場で藪も一息ついていると見込んでのことだから、一般のハイカーにはお薦めできない。道が無いうえ急勾配の下りだから、かなり地図読みが出来ないと危険であるのは言うまでもないだろう。しばらく降ると途中に山ノ神祠が祀られていたので、里が近いなと思う間もなく集落に出た。しかし、鹿除けのネットがあるし、その先はどうやら民家の庭を抜けている様子。道は本来家を繋ぐものであるから、山里では庭先を通っているのが普通なのだ。そこで道迷いを決め込んで頭を下げながら通らせてもらう。「すると、どこから来た?」とお声が掛かったので「そこの裏山から降りてきました」と言うと、オジさん最早とんでもなく呆れ顔。集落名を聞いたら「平溝」と言っていたが、これはハイカー向きの返答で「大沢集落」が正しいだろう。日向の山腹に張り付いた鄙びた集落だが雰囲気はとても良い。そして惣岳山へ向かうことを告げると「前の林道を登って沢沿いを行けば、少し急だがハイキング道に出る。そしたら惣岳山に行けるから後は御岳駅で旨いもんでも喰って帰れば良い」と丁寧にご教授下さった。感謝しながら別れを告げた後、アドバイスを無にして申し訳ないと思いつつも直接惣岳山へと登ってしまう。時刻は1218、少し風が強いが山頂で昼食休憩とすることにした。

ところで、日地出版発行のハイキング地図『奥武蔵』をご存知だろうか?(平成12年にゼンリンに吸収合併)手持ちのものは昭和47年度版で執筆調査は坂倉登喜子と奥武蔵研究会となっている。じつはこの惣岳山青渭神社の箇所に「金神」と書かれているのだが、頂上や社付近にそれらしいものは何も無かった。少し風はあるものの馬仏山から岩茸石山への道は気持ち良く、爽快な展望を楽しんだ後は再び高水山常福院へと引き返す。前に《不動堂の裏手の広場に何かあったのだろうか?》と書いたが、前出の日地出版の地図には「高水山山の家」と記載されていた。現在はトイレが設置されているだけだが、昭和47年当時は宿泊者も多かったのであろう。そうして成木参道を降り「なちゃぎり林道」を跨いで麓の鳥居へと急ぐ。確認したかったのはそこから先で、再び林道を跨ぐと雰囲気の良い旧道が続いていた。参道一丁目の分岐は、前回参道入口傍の屋敷の御主人に教えていただいた高水山参詣路の道標に続いていることは間違いない。するともう一方は…目前の尾根のタルに目をやれば、近くを車道がトンネルを穿っている。入平集落の上にある峠は小沢峠しかない。本日一番の里山の風景には違いなく、再び成木まで足を運んだ甲斐があった。この分岐を左にとって進むと路傍に「向左 高水山道」の石道標がある。そして、前々回紹介した「右ちちぶ、子のごんげん」と刻まれた巡礼供養塔の建立された小字滝上の辻に出る。

この辻に架けられた橋を渡って庚申塔、そして地蔵尊の目前から細い路地に入る。頭上に成木街道が走っているこの細い道が、かつての旧鎌倉街道にして秩父道、そして子の権現道だ。だが階段を昇って最後の民家をやり過ごし、山道に入るものの作業道が交錯して趣が感じられないまま小沢峠へと至る。ただ山ノ神祠があるだけで、ここには峠の持つ明るい雰囲気が無い。但し、少なくとも成木側からだと登りやすい峠には違いないだろう。恐らく軍畑から続く旧鎌倉街道は伏木峠でエイグリノ峰を越え、大指集落を経てから小沢峠へ繋いだはずだ。何故なら松ノ木峠を経由するより直線的であるからである。松ノ木峠はむしろ大指集落から青梅方面へ向かう為に使われていたのではないかと思う。いずれも交通の要衝といえる峠であったに違いないが、一つの尾根のそう遠くない場所に峠が二つ並んでいるのはそう解釈するしかないであろう。ハイカーたちが手前勝手に名付けた鞍部とは違い、古くから生活に根差した峠であったことは間違いない。

小沢峠を名栗側に降っていく道にあたる小字は小沢坂で、とくに旧道の趣が残っているわけでもなく一投足で成木街道のトンネル出口へと至る。この成木街道のトンネルは、会報150号(昭和413月)に工事中であることが記されていた。トンネルと合した後は舗装路を歩いて行けば小沢バス停に着くが、沢沿いに降りて行くと、左岸に荒れた旧道がまだ残っている。但し、上の車道から投げ込まれたゴミが散乱しているので雰囲気はあまり良くない。どこでも林道の下はこんなものだが、少なくとも山で暮らす人々はこんな事はしないだろう。車道から離れると道もハッキリとしてくるが、旧道の道中なかばに8m2段の滝がある。なかなか立派な滝なので後日調べてみたものの、小字が「滝の入」ということだけで名称までは分からず、次回訪れた時に土地の人に尋ねることにしよう。そして粗末な橋を渡って再び車道に飛び出すのだが、その橋の袂に建立されている祠には「少名彦命」(病気平癒の神)が鎮座していた。かつてこの橋の下を潜ると麻疹(はしか)にかからないと言われていたそうだ。会報「奥武蔵」324号には橋本保次氏の想い出話として「橋くぐり」が掲載されている。車道に出たら10分と掛からず小沢バス停へと至る。開運橋の近くには新しいトイレが設置されているし、バス停には屋根もあるので、休憩がてらバス待ちをすることができる。到着したのは1610で、次のバスまでコーヒーを沸かして飲むには十分な時間であった。

年を越しての報告で申し訳ありませんでしたが、結局のところ、ニホンオオカミと山犬に関しては会報「奥武蔵」新年号に掲載することにしました。ところで、やはり気にかかるのは惣岳山青渭神社の「金神」ですね。金神とは「金精様」のことだとすると社のあたりに石神が鎮座しているはずですが、残念ながら見当たりませんでした。しかしながら『名栗の民俗(上)』(平16)によると《二区の和泉入と石神入の川の流れは、山際で接しており、その間の尾根の先端といえる場所にイシガミ(石神)が祀られる》とあります。『ものがたり奥武蔵』に収録された畠山重忠の伝説を今一度読み返してみると《秩父から鎌倉へ行く畠山重忠は名栗街道を往来しましたが、彼は非常な美男子だったので、街道筋の家々の女がうるさく、この棒ノ尾根の山稜づたいの裏道を通りました。ある時例のよってこの峰にきますと、杖にしていた棒が折れてしまったので、その一つを名栗側へ一つを大丹波側に捨てたので、それからこの山を棒ノ折山と呼ぶようになったというので、その棒の一片だという石が今も大丹波側のゴンジリ沢の奥にあります》と記されていますので、位置からしても名栗側に投げ捨てられたのは石神入のイシガミ様だと思われます。とんだところで伝説を垣間見ることが出来たわけですが、惣岳山青渭神社の「金神」ついての記述は見つけることが出来ませんでした。尚、小沢峠旧道の橋下(ハシカ)を潜る風習については『名栗の民俗(上)』にも収録されています。

なかなか更新できず恐縮ですが、本年もよろしくお願い致します。

2016年11月11日金曜日

秩父三十二番観音札所から釜ノ沢五峰・10/27



【荒波超えて彼岸へと漕ぎ出す般若船】
下段左:釜ノ沢五峰・三ノ峰
下段右:今回お世話になった長若山荘さん。(小鹿野町バイクタウンも今は懐かしいね)

昭文社エリアマップの調査をお願いしているYさんから、長若山荘のご主人にお話をお伺いしに行くので同行してほしいとの連絡があった。日程的にはタイミングも良いし、そもそも「秩父三十二番札所・法性寺の奥ノ院と釜ノ沢五峰のルートは繋げられないものだろうか」と言いだしたのは自分である。それに秩父観音霊場巡りのクライマックスであると思っている三十二番札所の法性寺へは、機会があれば何度でも訪れてみても良い。ただし、以前に訪れた頃とは違い、小鹿野町営バスも路線が大幅に縮小されていた。三十二番札所まで延びていた路線も今年から廃止されているようだが、事前に調べてみると長若交差点から法性寺までは1時間ほどなので、巡礼者になったつもりで歩けば良い。(巡礼の順路とは逆になってしまうが…)池袋から650発レッドアローで西武秩父駅に向かいYさんと合流してから820発の薬師の湯行き小鹿野町営バスに乗る。そして30分ほどバスに揺られ長若中学校前バス停にて下車。バスを捨てた後は平坦な道を、朝の空気を吸いながら三十二番札所を目指して歩いて行った。好天に恵まれ空はどこまでも青い。

長若山荘への分岐を見送って進んで行くと右手に秩父大神社のお社がある。もとは歓喜天を祭っていた為、聖天社と称していたそうだが、神仏分離の際に秩父神社の祭神を勧請した。とはいえ、もとは秩父神社も神仏習合時代には「秩父大宮妙見宮」として妙見菩薩を祀っていたので、現在の祭神は天之御中主神とするのが適当であろう。歓喜天は、もとはヒンドゥー経に登場する象頭人身の暴神で、聖観音が同じ象頭人身に変身して抱擁することで歓喜を与えた後、仏教の守護神として帰依させたとされる。この歓喜天は象頭人身が抱擁する立像だが、男女抱擁の姿で刻まれていることもあり秘仏とされることも多い。いずれにしても、この秩父大神社の脇には「秩父札所三十二番法性寺」とあるので、法性寺山門は目前である。従ってかつての聖天社も霊場の境内社とみても良いだろう。当然ながら三十二番の本尊が正観音(聖観音)であることは云うまでもない。そこで『新編武蔵風土記稿』般若村項を紐解いてみると、「○聖天社 神職吉田家配下神田伊豫下同じ」と記されていた。(蛇足だが長若地区はかつての長留村と般若村が合併してできた合成地名)

法性寺山門には一般に云うところの般若の能面が掲げられているが、これは語呂合わせの如く近代になって奉納されたものであろう。江戸時代へのタイムスリップ感を得ようとするならば、ここでさらに『新編武蔵風土記稿』を読み込まなければならない。

○三十二番観音 秩父三十四番札所の内なり。小名柿久保にあり。堂は南向き方四間。本尊正観音木立像六尺二寸、行基の作なり。是を般若堂と云い即ち扁額を掲ぐ。此の山も又、行基創建の古霊場なり。往古、異僧此の堂に来たって大般若経若干を一夜にして書写して所在を失いぬれば、奇異の思いをなして太守に告げしに、「経は永く寺宝となすべし。般若の守護には十六善神を祭るべし」と遂に造営せられ、是より此の地を般若と云えるよし。堂も爾が云われとなり事は、円通伝にみえたり。
山の形勢、奥ノ院に至り巌船に似たり。仍って石船山とよべり。事績、円通伝に委しければ茲に粗よその勝概を挙げるに、山はもとより一石山にて峨々たる磐岩、高く聳えて険しく天狗山、羅漢山など云える岩山あり。仁王門は東向きに立てり。是より石燈を登ること三級にして九十三段を経て別当法性寺に至る。寺後、磐岩に刻みをなして結構頗る牢し。後ろより危岩の高さ十余丈なるが擁壓せり。そこに又洞窟あり。高さ二丈五六尺、深さ三間半、幅七間許り、その中に千体地蔵堂あり。堂の右に一ッ岩ありて艮向きの洞穴あり。穴口幅一丈、高さ五尺、即ち洞門に似たり。腰を折りていくこと二間許りにして出づ。
これより南向きして上がるに、又、険岩に金鎖を下して縋りて登り、或いは梯子を繋げて攀じ上り、或いは岩に刻みをなして上り、少しの平あり。そこに又岩窟あり。深さ八九尺、高さ五尺、幅十間。其の中に木蓮及び十三体の石仏を安ず。また、同じく険阻を登り遂に頂きに至る。観音堂より茲に至る凡そ四町と云い、是れ岩船山なり。船に似て南北に亘り百八間余り、幅五間余り。北を舳(へさき)として南を艫(とも)となす。北に正観音の金仏露座するあり。南に大日の金仏のあり、長さ五尺の座像なり、是れを奥ノ院とす。即ち岩窟に安ぜり、この所には高さ三丈許りなる岩ありて、北向きに洞窟あり、その深さ七尺、幅六尺、高さ七尺余りに及べり。此の辺り、景趣いとすぐれて郡中にも、亦この境のごとく寺絶えたるは比なし。
参詣の徒、札堂の後ろに下れば又、巨石対峙して洞門の如くなるあり。皆、身を潜めてその中間を出づ。巡礼の詠歌に曰く、「願わくば般若の船にのりて得ん いかなる罪も浮かぶとぞきく」

○別当法性寺 石船山と号す。曹洞宗にて久長村天徳寺末なり。境内除地五畝。本尊薬師木座像、長さ一尺六寸。前立に日光、月光、二菩薩あり。其の外、千手観音、船観音、地蔵等あり。開山眼応、貞永元年に化す。月日しれず、中興開山宗祭、宝永五年九月十一日入寂。
○仁王門 東向き、二間に三間半。左右に仁王の木立像二身を置く。長さ六尺三寸。
○地蔵堂 これを千体地蔵堂と云う。金仏の座像、長さ三尺五寸なるあり。其の余、千体は木立像なり。
○札堂 巡礼の札を納むる所なり。中に釈迦安ぜり。
○奥院 岩船の岩窟に大日の金仏を安ず。座像にて長さ五尺。
○羅漢山 羅漢岩とも云い一円の盤岩にて高く聳えたり。
○天狗山 天狗岩とも云い羅漢岩に続いて同じく高岩対峙し、往々に松茂りて寥々たる岑寂の絶境なり。寺層の物語りに、此の山に住まえる天狗は、大阪落城の時に手伝いせし老物にて、時々いたづらをなし故に船丸天狗坊大権現と祭りしより境内安穏なりと云う。

読みやすくする為に若干送り仮名を加えているが、勿論読み飛ばしていただいて結構である。十六善神とは法性寺とともにかつて般若堂近くにあった大般若十六善神社の祭神で、別当(管理)の経王山般若院が聖護院末の修験であったことから明治期の修験道廃止令によって還俗したものと思われる。また「円通伝」とは、正しくは『秩父三十四所観音霊験円通伝』と云い、江戸期の延享元年(1744)に発行された秩父観音霊場の縁起を纏めた書である。そして、さらに『新編武蔵風土記稿』には般若院の寺宝として「大般若経二巻」が挙げられており、「弘法大師真蹟と伝うれども信用しがたし。円通伝に云う。北条氏東国を領するとき希代の霊宝とて居城に采り納め、法性寺に僅か六巻を残し止められると云う。城中にありしは落城の時、灰燼となるらんとあれば、斯かる般若も其の数の内なるものにや」とある。

大般若経とは、「西遊記」のモデルとなった玄奘三蔵が大乗仏教の基礎的教義を集大成した『大般若波羅蜜多経』という経典の略称で、全十六部六百巻から成る膨大な経典で構成されている。そもそも般若とはパンニャーの漢訳音写で悟りを表す智慧のことで、大乗仏教の特質を意味している。つまり地名や寺号ともなっている般若の由来と、鬼女の能面とは何ら関係がないというわけなのだ。別当の法性寺は鎌倉期の貞永元年(1232)に眼応玄察が開山したとされ、奥ノ院に大日如来が祀られていることから、古くは密教系寺院であったとされている。また、「円通伝」の縁起に「豊島郡の住人、豊島権守が娘を同郡に嫁がせた…」と云う件があるが、時代背景としてはなるほどと思わせる。室町後期に豊島一族は太田道灌によって滅ぼされてしまうからである。江戸期に曹洞宗寺院として体裁を整えたのは中興開山とされる宗祭で、宝永五年(1708)に示寂している。

さて、いつもの様に前置きが長くなってしまったが、法性寺前のトイレで少し休憩した後、鐘楼門と呼ばれる山門を潜って本堂へと向かう。別当法性寺からは奥ノ院とされる岩船の舳先に立つ観音像が見える。そしてさらに奥に進んだ右手の懸崖に、般若堂(観音堂)が建立されている。本尊は正観音で船頭よろしく笠をかぶり両手に櫂を携えていることから、お船観音と呼ばれる由縁ともなっているのだ。また、般若堂の後ろ側には侵食によってできた太古の岩窟があり、蜂の巣状に風化している。そこには地蔵尊の祀られた御堂もあるのだが、風土記稿の記述にある「千体地蔵堂」とは違うのだろうか。何故なら「其の余、千体は木立像なり」とあるからである。そして「洞門」を潜ってさらに奥へと進むと、右手に天狗岩と羅漢岩が聳えている。岩に階段状に刻まれた道は胎内観音と呼ばれる龍虎石に差しかかり、尚も進むと目蓮尊者と十三仏の祀られた岩窟の辻に出る。十三仏は秩父観音霊場成立に関わる性空上人をはじめとした十三賢者かも知れない。いずれにしても、『新編武蔵風土記稿』三十二番観音堂之図からすると、いつの間にか岩船(図には般若船と記載されている)に乗船していることになる。十三仏の祀られている場所は、即ち般若船の船内を顕すと見た。

秩父は太古に海だった…とは信じられないかも知れないが、三十一番札所観音院で荒波に浸食された砂岩礫層の崖に刻まれた摩崖仏を目の当たりにして来たばかりの巡礼者たちには、最早そこがかつて海だったということを疑う者はいなかったはずだ。十三仏の祀られた辻からさらに進むと、突如として荒波を山並みに代えて進む岩船の上に立つ。大乗仏教の特質を見事に示現させた般若船の舳に立ち、彼岸(悟りの世界)への船頭を努めるのは正観音である。但し、残念ながら記事には「北に正観音の金仏露座するあり」とあるので、江戸期のものでないのは明らかである。向きも現在のものとは違うだろう。悟りの世界は三十四番結願所の水潜寺、即ち正面に見える遥か城峯山そして破風山の向こう側にあるからなのだ。それに残念ながら現代の仏師には、座して笠をかぶり櫂を携える観音様の御姿といったイメージは湧かないであろう。そして甲板を行くように岩船を緩やかに登っていくと大日如来と釜ノ沢への分岐へと至る。そして鉄鎖を頼りに7-8m這い上がるようにして行くと、艫にあたる部分に大日如来の座像が祭られている。120kmに及ぶ秩父観音霊場巡りの旅は、ここに至って極楽浄土への想いも絶頂に達したはずだ。勿論、巡礼者たちはここより先に進むことはなく、身を潜ながら洞門のような道を般若堂へ降り次の札所へと向かうのである。

道標に従って尾根伝いに登って行くと、すぐに柿ノ久保集落と釜ノ沢集落の分岐となる。地形図にある破線は恐らく間違いで、この分岐は地図上では478m三角点手前の、頭上に高圧線の走る場所にある。昭文社エリアマップでもこの分岐から亀岳を経て長若山荘へ向かうルートを紹介しているのだが、この尾根から釜ノ沢五峰へ足を伸ばせるか確認するのが今回の山行目的でもあった。実際には地形図に破線がある為か、踏み跡もかなりしっかりしているようだ。但し、植林帯を抜けて三角点のあるピークへ向かうには、伐採地の常で荊棘がやたらと繁茂しているので無暗に痛い。それでも三角点のあるピークは眺望も良く、小休止しながら談笑する。時刻は寄り道を繰り返していても1130。長若山荘へはあまり早く到着してもかえって迷惑となってしまうからだ。荊棘に辟易したか流石のYさんも「戻りましょうか」と云い出すが、伐採地を抜けて植林帯に入ってしまえば荊棘の類も姿を消す。そして再び伐採された540m付近のピークに至るが、こちらはまだ作業されたばかりで荊棘は無かった。加えてかなり良好な展望台で得した気分だ。奥秩父方向は両神山に奇峰二子山、その隣には白岩山。振り返れば釜ノ沢五峰の奥に熊倉山が望める。そして、そこからわずかに進むと釡ノ沢五峰と文殊峠、金精神社の分岐となる独標565mへと至る。時刻は1200で、たいした登りでもないのでコース設定も可能だが、やはり途中の荊棘が繁茂する箇所がいただけない。それに先ほどの好展望台も一年後には荊棘だらけにならないとも限らない。なので、しばらく様子を見たほうが良さそうだ。

釜ノ沢五峰は長若山荘さんの地所で、それぞれの峰の頂上に順に「○ノ峰」と刻まれた石標がある。その突き出た峰は岩峰で鎖を使って登るのだが、安全な巻き道を通ることも可能である。じつはこのコースは長若山荘さんによって定期的に整備されているコースなのだ。ところで、四ノ峰で岩峰に熊の爪痕が残されていた。今朝乗ったバスの中で「昨日、釡ノ沢で熊が出た」との話は耳にしていた。熊も冬眠前で活発に行動しているらしい。その爪痕は三ノ峰のクヌギの木の下でも確認できたが、にわかに動く黒いものに気づいて一瞬ギクリとする。しかしそれは猿の群れで、ボス猿がしきりにこちらを警戒している。目を合わさずに群れが通り過ぎるのを待ち、少し急な三ノ峰へと登ると明るく開けた感じで眺望も良い。この場所を別名・兵重岩と呼ぶのだそうだが、「昔、兵重という男がいて博打でイカサマをしたので、この岩から転ばした」という話があるそうだ。勿論これは長若山荘のご主人からの受け売りである。そして二ノ峰、一ノ峰と降って行くが、一ノ峰を過ぎた辺りの標高400m付近で尾根からルートが逸れるので、踏み跡を辿るとあらぬ所へ降ってしまう。登って行くには問題無いが、降ってくる際には注意したい。

ここまで来ればもう長若山荘の裏山なのだが、亀ヶ岳の方向へ少し登った所に「雨乞い岩洞穴」がある。現地に行くと小さな祠と背後の大岩には洞穴があるが、洞穴そのものは殆んど埋まっているような感じであった。気になるのは祠のほうで、神道式のようにみえるものの中には仏の立像が祭られていた。白波の上に立つ御姿なので、お船観音とも関係がありそうだが、残念なことにせっかく長若山荘のご主人に教えていただいた名を失念してしまった。長若山荘に到着したのは1420であったが、それからご主人との会話が弾み一時間ばかり話し込む。ご主人は90歳を超えているそうだが、じつに聡明な人であった。外人さんのお客さんが多いのも、剣道場や弓道場を経営していることもあるが、ご主人をはじめご家族の人柄に引かれてのことだろう。例えば、長若山荘から龍神山538.6三角点に向かう途中、兎岩の先に「賽の洞窟」という岩窟があると聞く。そこで「そこはバクチ穴ですよね」と訊ねると「ああ、サイコロを転がしていたから賽の洞窟っていうんだいね」とニッコリ。隣で目を丸くして聞いていたのはYさんで「賽の河原とか神秘的な名前なのかと思った」とのこと。こんな感じで話は止め処も続いてしまったが、そう長くお邪魔するわけも行かないし、帰りのバスの時刻のこともある。Yさんが釜ノ沢五ルート上の現状と改善点を書き出したマップをご主人にお渡しして民宿・長若山荘を辞した。

帰路は今朝来た道を戻ったが、落合橋を渡った所で地蔵堂に目が留まる。いや、正確には「地蔵堂の脇の摩滅した石仏は何か?」とYさんに問われたので、「馬頭観音と庚申塔でしょう」と答えると、それを聞いていた家のご婦人に話し掛けられる。当然ながらこんな道草は大好物だ。今回は4時のバスを逃すとかなり遅くなるということで長若中学校前バス停に戻ることとしたが、桜株の石仏の建立された分岐を左に進めば江戸巡礼道となる。そして西武バスの松井田バス停まで行けば、手前の宮本の湯で日帰り入浴も可能なのだ。すでにこのルートは2017年版にて反映させる予定でいる。西武秩父駅へ向かう長若中学校前バス停は停留所こそ無いが、長若駐在所の前で待っていれば拾ってくれる。その駐在所に到着したのは1558のことであった。

地図調査に加えYさんにはお世話になりっぱなしで申し訳ありません。今回もお付き合いどうも有り難うございました。

2016年9月13日火曜日

「白昼の北斗星」に「棒の折」を探る・9/9



【名坂峠道・泣き坂の升ヶ滝】
下段左:大丹波川の畔でキャンプ場を営む百軒茶屋
下段右:棒ノ嶺、大丹波側にある祠の祭神は山ノ神様にあらずして石神様なり。

前回予告した通り、今回は宮内敏雄氏の記述にある金精様を探してみようと、またもや東青梅駅から上成木行バスに乗り込んだ。同じバスには高水山へ向かうグループ一組が乗り合わせていたが、終点の上成木バス停の二つ前の高土戸バス停にて下車する。前回、車窓から見た「高水山一ノ鳥居跡」に立ち寄って行くためである。また、天照大神を祀る上成木神社に寄ってみたいという気持ちもあった。その名からして、かつての村社であったことは自明である。そして大指バス停を過ぎ前回スタートした上成木バス停へ。「高水山常福院龍学寺 表参道」の石柱を起点として名坂峠へと向かうことにした。石柱に刻まれた麓の龍学寺は寺号であり、高水山浪切不動尊の別当寺であろう。ちょうど近くに土地のご老人がいたので伺うと、「高水山参道入口」の石柱が往昔の浪切不動尊への入口で、現在は一部荒れているものの、前回見た林道先の鳥居まで繋がっているとのことである。そして、昔は門前にも商店があったそうだ。お爺さんに御礼を述べて別れた後、路傍に建立された寛政十二年(1800)の出羽三山百観音霊場巡拝塔を見る。例によって道標を兼ねるもので、「右 子のごんげん・ちゝぶ 江」と刻まれてあった。云うまでもなく橋を渡ったその先は、小沢峠へと続いているのは勿論である。また一方には「西 甲州・日原道」と刻まれている。西は極指集落を経由して名坂峠に向かう道であり、往来も頻繁であったことが分かる。名坂峠への入口あたる極指集落には、それを物語るように多くの石仏が路傍に祭られていた。

集落奥の名坂峠入口には、先に見たものより小さい出羽三山百観音霊場巡拝塔が建立されていた。そして浄水場脇から山道に入り、暫く歩くと沢の分岐に丸木橋が掛けられている。橋は粗末なシロモノだが、橋台の石積みはかなり立派であった。貧弱な丸木には乗らずに下を渡ると第二の丸木橋が現れるが、こちらの石積みもかなり堅牢に造られている。その先には山葵田跡の石積みがあるが、まさかワサビの為だけに造られたものとも思えない。途中には桟道の痕跡もあるが、当然ながら全て朽ち落ちていた。どうも浪切不動尊への裏参道のようにも思えるが、やがて衝立の様な滝の前で行き止まりとなってしまった。滝上にも道が繋がっていることも考えられるが、これ以上進むのも道草が過ぎると思い引き返す。果して、この滝の正体が何であるかは見当もつかない。が、一方の惣岳山には青渭神社があり、山頂近くには真名井(青渭の井)と呼ばれる霊泉がある。従って高水三山と呼称されているように、岩茸石山にも水に関する宗教的アジール空間があったも不思議ではないのだ。伝承の通り、三山を綿密に探索すれば確かに四十八の滝があるのかも知れない。いずれにしても、まだ時間が早いこともあり思わぬ道草をしてしまったので先を急ぐことにしよう。元の道に戻り、道が険しくなってくると鉄橋が架けられていて、これをやり過ごすと升ヶ滝の滝上に出る。明るい渓流が美しいが、一歩間違えれば滝に転落してしまう恐れがある為、周辺にはロープが張り巡らされていた。

升ヶ滝は上成木バス停の案内板に記載されていて、滝見の為の散策道も整備されている。その指標に従って散策道を進むと遠目に見ても立派な二段の滝が望める。高さは12mで、中ほどに2m四方の升形をした釜があることから名付けられたという。生憎と滝壺まで降りることはできないものの、対岸の眺めの良い場所までは周回できる。但し往復で30分以上のロスは見込んでおいたほうが良いだろう。升ヶ滝を過ぎると路傍にも目立つ巨岩が多くなり、籠岩と書かれた標示板がある。籠には見えない岩だが本来は加護岩だったのかも知れない。そしてさらに先に進むと、畠山重忠が切り下げたという伝説のある切石があり、確かに岩には直線的な亀裂があった。この切石を過ぎると沢も細くなってしまうが、峠道も落葉樹に囲まれて岩を被う苔も良い感じだ。そして沢から離れ植林の中をつづら折りに坂を登って行くと名坂峠へと至る。升ヶ滝周辺の悪場を考えると、駄馬たちの往来は到底無理だったのでないかと思う。この名坂峠までの道が泣き坂とも云われる所以でもある。前回見た通り、この峠から岩茸石山山頂は一投足なので、山頂で昼食休憩とした。流石に寄り道ばかりをし過ぎせいか、すでに時刻は12:10となっていた。

宮内敏雄氏の著書『奥多摩の沢歩き』(15)から「成木川」の項を引用してみよう。《成木川-池袋で武電に乗り飯能からバスに乗れば、名栗川の清流に沿って幾度か屈折を繰返し小沢に着く。バスを降りて清々しい流れを渡り滝ノ入沿いに登る四〇九米のケバ峠と言勿れ、これでも国境尾根の名を持って居るのである。『武蔵通志』を見ると[改行]小沢嶺 上成木上分ノ西ニアリ、字滝上ヨリ登リ四町四十三間ニシテ頂ニ至リ名栗村ニ達ス、牛馬ヲ通ズベシ。里伝云昔成木川ヲ以テ郡界トナス後村人協議シテ此ノ嶺上ヲ以テ郡界ト定ム。云々[改行]となり、峠を踰すと、東京府側はカラリと明るく洵に気分の好い降りで人家や山畑の前を過ぎて大沢入の部落を洗う成木川の滸りに立つ。[改行]大沢入は静かな部落で、賞でる人もいない季の花が雛に点々と可憐である。左に高水登山路を見送って極指の部落に入る。[改行]此処から大丹波部落へ抜ける名坂峠は一に泣ッ坂と謂われる一寸した急坂で小一時間の登りが続く。[改行]峠に立てば九三二米の岩茸石山までほんの一投足である。この山を大丹波では鷹ノ巣山と呼んでいるのである。そろそろ賑やかになって来た尾根筋を、馬仏山一つに向イ山という突起の東を搦むともう惣岳山である》小沢峠の項には牛馬も通行できると記されているが、極指集落の外れに唯一建立されていた馬頭観音が少し気になる。

さて名坂峠に戻り大丹波を目指して降って行くが、植林の中を行く単調な道で中程に峠道の面影を若干残すが、すでに生活道の役割を終えていると云って良いだろう。しかも出口付近では新たな林道の開削が進められていて重機が騒音を撒き散らして働いている。この林道は八桑バス停で都道202号線と道を合わすが、そこには「左ハ山に  右ハちゝぶに」と刻まれた古い自然石の道標が建立されていた。つまり小沢峠入口の出羽三山百観音霊場巡拝塔(道標)に従うと、名坂峠を越えた日原・甲州道はこの八桑近くの北川橋を渡り、さらに川井から青梅街道へと繋がるというわけなのだ。一方、棒ノ嶺への登山口は大丹波の奥へと進む。昔の山大尽だろうか、豪気な屋敷を仰ぎながら歩いていると、後ろからバスが追い越して行く。が、もう終点の清東橋バス停まではわけない距離だ。そこからさらに登って行くと百軒茶屋があり、店の横に設置された自販機前で小休止。棒ノ嶺(大丹波側の表記は棒ノ折山)を登るにあたって水の確保と補給を済ませる。すると百軒茶屋のおばさんが心配顔を覗かせた。時刻も14:30を回っているので、これから棒ノ嶺に登るとなるとギリギリだからだ。良い機会なのでお話を伺わせていただくと、中茶屋と奥茶屋は元々の地名で、百軒茶屋は屋号だそうだ。何でも明治の頃のお爺さんが、庄屋さんから百間ほど離れていたことから名付けたらしいが、百軒に掛けているところが明治人らしくて風流だと思う。ところで、山間部でいう茶屋とは茶店のことではなく、茶の栽培を生業とする農家をいう。おばさんの話では、今は植林されているが、キャンプ場を始めるまでは殆んどの土地が茶畑だったという。そして、その茶を名栗へ売りに行く為に棒ノ折山を越えたのだそうだ。そしてそれを確める為にも、是が非でも棒ノ嶺へと登ってみたくなった。

 さて、おばさんが棒ノ嶺ではなく棒ノ折山が正しいとする山名についてだが、まずは『ハイキング』27(9)-田中新平氏の記述を見てみよう。《(前略)此処で棒ノ折と棒ノ嶺とに付いて書き加えて置くが、棒ノ折と棒ノ嶺とは全然異なったものであって、棒ノ折とは一節の石を言うのであり、棒ノ嶺とは其の山の名前である。人に依って此の山を棒ノ折山と言う人もあるが、此の場合頂上にも書いてある如く土地の人にしたがって、棒ノ嶺は棒ノ峯と呼ぶのが正しいと思う。[改行]四辺にはワサビ畑が沢山あって、其の畑の中に割合に立派な道が付いている。三十分も登ると伝説の棒ノ折の前に出る。此の石は昔畠山重忠が杖について此処まで来ると(恐らく名栗から奥多摩にでも来る途中であろう)、ポッキリと折れて仕まったのだそうである。然し畠山重忠がどの位力があったかは知れないが、直径五寸もある石の杖がつける訳のものではない。それに畠山重忠と言えば相当に古い人であるので、其の石が本当に当時のものであったならば、もう少し苔蒸していなければならないのに、石には苔なぞは少しも付いていなかったのは不思議である。傍らに『棒の折』と書いた立札が立っていて、別に棒ノ峯への指導標も立っていた。[改行]棒ノ折より道は急激な登りとなり、桧や杉の樹木の間を縫って行けば間もなく、気持ちの良いカヤトの尾根に出る。そして棒ノ峯の頂上に着こうとする少し手前で道が左右に岐れていて、其処に『右、名栗へ。左、山道』と書いた道標を見る。右の道は権次入峠に至るのであって、左の山道への道を辿ればナゴーノ丸(九五八・四M)を経て火打石谷ノ頭(一四三0M)、鹽地谷ノ頭、ソバツブ山(一四七ニ・九M)、仙元峠などの山へ行くのであろうが、その道が何処まで付いているかは疑問である。其の道標から頂上への道は殆んど付いていないがかまわずカヤトの急峻を十分も登れば、其処は広々とした棒ノ峯の頂きである。樹木なぞは一本も生えていないカヤトの其頂上からの眺望は実に素晴らしいものであった。(後略)》

この山名考に関してはその後に発表された宮内敏雄氏『奥多摩』(昭19)の論が正鵠を射ていると思うので引用する。《さて棒ノ折山であるが、この山を名栗側では坊ノ尾根と呼んでいるのである。 之は昔からこの山が有名なカヤトの山だったからで、往時は河又附近の農家は、家屋の屋根の萱ブキを採るために、毎年此処を火入れしてカヤトを生い繁らせたものだそうである。現に名栗川流域を歩いていても、時々前衛の雑木の山の彼方にこの山の狐色のドームを懐かしく仰がれるのだが、これを坊主山の意味で坊の尾根との表現は如何にも簡明な表現だと思う。[改行]特に山頂を尾根と呼ぶのは変なようだが、このように呼ぶ例は珍しくなく、「多摩郡村誌」を一寸披いても、頭窓山を指ノ尾根、三田窪山を丹三郎平ノ尾根、布滝ノ峰を三道尾根などと幾つも此の附近にあるのである。[改行]次に坊ノ尾根が文書に書いて棒ノ尾根となった例は、これまた語音がおなじだからで、「甲斐国誌」巻ノ二十六山川部を見ると「坊ノ峰或ハ棒ケ峰ニ作ル」と八代郡御坂山塊の山に見えるし、箱根火山群中駒ケ嶽の棒みち、また御嶽山北方の中ノ棒山の如く、漢字の悪戯が目に訴える好個の例であろう。[改行]再び大丹波側から考えてみると、石棒を俚人は棒ノ折山として祀って、今では本来の意義は忘れているが、あきらかにこれは金精様で、それを崇拝した名残りが今日まで惰性で伝わり、「あの棒ノ折様が」の位置を示す言葉がその祀ってある場所を指すようになり、それが名栗側の坊ノ尾根と混乱混同して、棒ノ折山の名が山を距てた双方の部落で同一名で呼ばれるほどになったのであろう》。

以前に山名は先に名付けた方が優先すると書いたが、実際に二つの地域にまたがる場合には、どちらの山名が先かなどとと立証することは不可能だ。これが租税対象となる地名であれば確定させなければならないだろうが、多くの場合は稜線を境界としているので、まったく交流のない二つの地域にまたがった山であれば其々の山名があっても可笑しくない。むしろ統一させようとする方に無理があると云える。この棒ノ嶺の場合は、字こそ違えているが名栗と大丹波で昔から交流があったからこそ同音異字の山名になっているのだ。さてさて、時間も押してきたので百軒茶屋のおばさんに別れを告げて先を急ぐことにしよう。棒ノ嶺へは公衆トイレの所から大丹波川を渡って山葵田の脇を登って行く。清流沿いの山葵田は現在も管理されているが、放置されている箇所を含めるとかなりの面積となるだろう。これだけの山葵田の石積みを構築するには何十年もの歳月が必要だったはずで、世襲によって山葵田を守ってきたのではないだろうか。その山葵田を管理する為か清流に架かるキッチリとした桟道を辿って若干開けた場所に出るとそこに小さな祠を目にする。前回引用した宮内氏の記述によると、石神様(金精様)はこの周辺に転がっているはずだ。が、よく目を凝らして祠を見れば、石神様が中に鎮座しているではないか。宮内氏はさらに武田博士の考察を引用しつつ《ゴンジリ沢滸の石棒を、山頂で平素愛用の石棒が折れたので一端は名栗の谷へ、一端を此処へ捨てたのを祀る。 その棒の高さ一尺一寸、上端の周囲八寸、下端の周囲六寸を算する―とその写真を添えて考証されてある》と記しているので、サイズ的にも間違いはない。恐らく転がっている石神様を見るに忍びず、土地の人が祠へ納めたのであろう。

石神様は縄文後期の遺物で両端が丸められた円柱の石造物であり、男性の陽物と似ていることから金精様として崇められている地域も多い。悠久の太古から信仰されてきたものには違いはないが、山ノ神様などではけしてなく地図などに見る表記は訂正されて然るべきだろう。とはいえ、もはや消失していても不思議ではないと思っていただけに、土地の人の篤い信仰心を改めて垣間見ることとなった。石神様の祠からは単調な登りで、暫く登ると露岩帯が現れる。そして、その先をつづら折りに登れば棒ノ嶺山頂へと至る。すると大丹波側の麓で暮らす人々は、権次入峠を経ずに山頂へと直登していたのかということになるが、前出『ハイキング』誌を読む限りそんなはずがあるわけない。逆に山頂を経ずに権次入り峠から名栗へと降ったはずである。さらに飯能の町を目指すなら岩茸石を経て滝ノ平尾根を降って河又へ向かい、さらに仁田山峠を行けば原市場まで近道できる。いや、何度も峠を越えたくなければ、やはり湯基入の道を降って名栗川橋の字市場を目指したはずだ。前述の宮内氏の著書『奥多摩の沢歩き』から「権次入沢」の項を引用してみよう。《権次入沢-岩根常太郎兄をして「白昼の北斗星!」と賛仰せしめた棒ノ折山のあのやわらかなカヤトのドームを繞ってつけられた幾多の径の一つに大丹波から名栗に抜ける古めかしい権次入峠径がある。[改行]大丹波川の探勝道路を権次入河原まで来たら対岸に渡り植林の中を沢辺に出る。[改行]山葵田の沢を搦んで行く静かな小径。[改行]水暗く日の舞う谷や呼子鳥[改行]呼子鳥こそ啼かねど、洵に秩父越えの古道にふさわしい清々しい渓間である。[改行]やがて左側にその昔、秩父ノ庄司畠山重忠が所用で急遽鎌倉に馳せ参ずる際、権次入峠の辺で平素愛用してるステッキが折れたので一端を此所へ、他の一端を名栗ノ谷に投げ捨てた―その化石したのが是だと伝わってるのであるが、重忠如何に膂力衆に秀れりともまさか周八寸の杖は持てまい。惟うに、金精峠と同様なものではあるまいか。[改行]棒は明らかに人工のもので、平な石の上にあり高サ一尺一寸、上端の周囲八寸下端の周囲六寸を算し、年代その他の文字は何も刻してない。[改行]ジグザグに急坂を登りつめて、茅戸の南を捲けば権次入峠だ。[改行]目交いに美しい棒ノ折山(坊ノ尾根 地図の棒ノ嶺とあるのは誤)の昂りが、秋ならば白銀の波美しきカアベットを繰布げている》

「白昼の北斗星」は、岩根常太郎氏の著書『奥多摩渓谷』(昭18)に《全山茅戸のあの特色的な山膚のいろ、秋から冬にかけ焦茶に焼け、あの山姿を吾々は近隣から南岸から、近くの高み、北のなか空に探し求めぬことゝてない。私にとってあの山はひそかに「白昼の北斗星」なのだ》と文中に用いられたフレーズである。それはさておき、やはり権次入沢からの旧道は、山頂を巻いて権次入峠に直接向かっていたのは間違いない。登山者にとっては登山の対象に過ぎないが、生活する者にとって山は越えるものである。だが今では山頂を経由しなければ権次入峠に行くことは出来ない。云うまでもなく、生活の為に峠越えをする者が皆無になってしまったからである。こうして調べてみると、戦前には大丹波から直接棒ノ折山山頂へ続く登山道は無かったようだ。しかし、戦後発行された『奥多摩の山と谷』(34)には《(前略)いつしか部落をぬけ対岸に真名井沢出合を見ると清東橋を渡り右に百軒茶屋を見る頼めばお茶の接待をしてくれる。その先で導標にしたがい右の小径をおり、大丹波川にかかる丸木橋を渡る。杉の植林中をジグザグに登ると径はやがてゴンジリ沢に沿って行くようになる。あたりは一面のワサビ田である、右へ小径を分ち本流はその先で五米位の小滝を落している。大丹波青年団の建てた導標のそばに例の有名な石棒は金精さま(男根)と祀ったと云われている。これより上には水場がないので水の補給を忘れない事だ。ここで径は左にまがり杉の植林中を急登する。棒ノ折山中腹の巻径を横切れば程なく棒ノ折山頂である。展望の良いのは今更云うまでもない。(後略)》と記されていて、すでに峠道の他に山頂へと続く道も付いていたようだ。ともあれ、文中の「頼めばお茶の接待をしてくれる…」との記述から察するに、百軒茶屋ではまだ茶店としては営業されていなかったようである。また、今回残念なことに大丹波青年団の道標は遂に見つけることが出来なかった。

山頂には16:20に到着していたが、物思いに耽っている場合ではなかった。いくら何でもボヤボヤしていたら日が暮れてしまうからだ。山頂を辞して尚も権次入峠南斜面に旧道の痕跡がないかと探してみるが見つからない。仕方なく足早に岩茸石へと降って行く。岩茸石の分岐には「トウギリ林道」とあるが、漢字にすると湯基入である。今まで通った事がなかったのは、地図上に見る長い舗装路を嫌って足が自然と河又方面に向いてしまっていたからだ。だが、実際には道中に展望こそないものの、それほど悪いものでもなかった。岩茸石から湯基入方面に降るとまず林道大名栗線を跨ぐことになる。そして山中に入ると再び林道と道を合わせる。今度は舗装路を行くしかないが、林道のヘアピンカーブに背を向けた熊野神社の御社があるので、正面に回り込めば参道となり名栗温泉大松閣へと続く旧道となる。奥武蔵では良く見る林道敷設のパターンだ。そして舗装路と再び道が重なるのは大松閣近くなので、 楞厳寺の山門を横目に見てバイパスをやり過ごし、名栗川橋を渡れば目前にバス停がある。時計を確認すると18:10で、一息する間もなくバスは数分後にやって来た。

山頂が草原ではなくなってしまった棒ノ嶺は、周囲の山々に比して目立つこともなく最早「白昼の北斗星」との賛辞には値しないかも知れない。岩根常太郎氏や宮内敏雄氏がこの山を紹介してから70年以上の時を経ているので仕方ないだろう。だが、彼等の名が忘れ去られてしまっても、棒ノ嶺は人々を惹きつけてやまずに今日も多くの登山者たちが訪れている。