2017年1月13日金曜日

軍畑駅から旧鎌倉街道小沢峠越え・12/16

【高水山参道より 小沢峠を望む】
下段左:入平集落・滝上辻に建立された出羽三山百観音巡拝塔(子のごんげん、秩父道を刻む)
下段右:小沢峠道に架けられた橋と小名彦命の祠

明けましておめでとうございます。本年も宜しくお願い致します。
昨年末は地図校正と会報編集などに追われ、ここに山行報告を書いている余暇も無く申し訳ありませんでした。とは言え、登山の起承転結の最後は必ず報告で締めなければなりません。まあ備忘録のようなものなので気長にお付き合い願います。さて、前々回は高水三山に足を向けましたが、今回も軍畑から高水山浪切不動尊を目指しました。またかよとお思いでしょうが、青梅方面から飯能、名栗へと続く旧道を確認することと、不動尊前に狛犬のごとく建立された山犬像が心に突き刺さっていたからです。と言うのも、山犬はニホンオオカミとされてはいますが、御岳山は勿論のこと、この高水山常福院でいただく「大口真神」の御札はどう見てもオオカミには見えない。それどころか、立体的に削りだされた山犬像の耳は大きく垂れているのです。日本犬は耳がピンと立っているのが特徴で、それはオオカミも同様です。では、この未だに修験道の趣を残す不動尊に建立された山犬は、どこから来てどこに消えたと言うのでしょうか。

7:45JR青梅線軍畑駅をスタートし、踏切を渡って都道193号線へと降る。そして路傍の「高水山参道」の石標を右に見て榎木峠方面へと向かった。軍畑(いくさばた)の地名の由来は、鎌倉以来の豪族・三田氏と後北条家が多摩川を挟んで対峙したことによる。三田氏は後北条家との決戦を予期し、多摩川を見下ろす尾根上に築いた辛垣(からかい)城(二俣尾城)を拠って籠城戦を挑んだ。そして両軍が激しく交戦したのが多摩川河畔の軍畑で、そこには10mほどの高さの鎧塚があり、激闘の末に亡くなった戦死者や武具を埋めたとされている。この闘いについての経緯を述べることにするが、少し長くなるので歴史に興味のない方は読み飛ばしていただきたい。 天文十五年(1546)河越の戦いで後北条家に大敗した関東管領山之内上杉憲政は上野国平井城に落ち延びたが、一度失墜した権威を取り戻すことが出来ずに、臣下にあたる長尾景虎を頼って越後へと向かった。そしてその際、憲政の配下にあった武蔵の古豪・三田氏も早々に主家を見限り、後北条家の軍門に下ってその傘下となった。だが永禄三年(1560)に捲土重来した憲政は、景虎に奉じられて再び関東へ進攻。関東の諸将を糾合して、後北条家の本城である小田原城を攻撃した。そして翌年三月になると、長尾景虎は憲政から関東管領職及び上杉の名跡を移譲され、鶴岡八幡宮で華々しく就任式を挙行した。後の上杉謙信が、関東の覇者となった瞬間である。

離合集散は戦国の世の習い、三田氏も室町幕府の定めた新管領に従っただけなのだが、有名無実化した関東管領が越後へ帰ってしまうと、やはり実質的な関東の主は強大な軍事力を誇る後北条家で、小豪族たちはその力の前にひれ伏すしかなかった。織田信長が常備軍団を揃えるまでは、半農半兵が常識で軍事行動が行われるのは農閑期に限定されていたのだ。だから越後軍は農閑期となると雪の降る前に碓氷峠を越え、冬将軍の如く関東にやって来て覇を唱えた。言わば略奪を兼ねた出稼ぎ軍のようなもので、名ばかりの関東管領が居座っている間、巧く立ち回っていなければならなかった。いわゆる旗色を窺うと言うやつだ。しかし、どうしたことか三田氏が後北条家に再び帰属することはなかった。 永禄六年(1563)七月、当時まだ滝山城主であった北条氏照は、青梅から多摩川上流にまで支配が及んでいた勝沼城主・三田綱秀を討つために出陣。一方、迎え討つ綱秀は居城の勝沼城から山上の要害・辛垣城に拠って籠城戦となった。両軍は多摩川挟んで衝突したが兵の多寡には抗えず、やがて氏照手勢の員野半四郎らが多摩川を渡河すると、 内応した塚田又八が火を放ったため辛垣城は落城。綱秀は岩槻城の太田資正を頼って落ち延びたものの、再起が叶わぬことを悟って自刃した。

永禄二年(1559)に後北条氏が作成した『小田原衆所領役帳』八王子衆には三田綱秀の名が見えるのだが、隣接する入間・多摩の豪族の大石定久は、娘(比佐姫)の婿養子として氏照を迎え入れ、滝山城と武蔵国守護代職の座を譲って隠居した。以前、三田氏が吾野借宿神社を修繕した棟札があったと書いたことがあるが、岡部氏や加治氏を臣下としていたことを見ても、現在の飯能市にまで影響力を及ぼす有力豪族であったことは間違いない。或いは力関係で拮抗していた大石氏が後北条家との関係を確たるものとした事で、どこかに焦りを感じていたのかも知れない。滝山城と勝沼城の直線距離は12Km弱しかなく遠望できてしまう距離にあるので、必然的に両者は誼を通じていたはずである。だが前述の通り、上杉謙信がその翌年に小田原城を攻めた際に、あろうことか三田綱秀はこの攻撃に加わってしまう。氏照は十八歳で大石家に婿入りしたとは言え氏康の三男なので、面子を潰された後北条家が激怒したのも当然だろう。そして永禄元年(1558)、籠城して援軍を待つのも当時としては定法ではあったものの、余りに勝沼城の防備が脆弱すぎる為、綱秀は詰めの城として築いた「西の城」へ移った。これが勝沼城の西方にあたる辛垣城で、雷電山に連なる辛垣山は複雑な地形をした要害であった。

辛垣(からかい)という地名については、宮内敏雄氏の『奥多摩』によると「辛垣とは空峡…涸沢のカラと、沢をカヒという発音、たとえば丹波山村の貝沢や陣場山南麓の貝沢の例を考へて―」とある。峡の字を谷とすると鎌倉方言ではカイと読む、つまり空谷という意味であろう。複雑な地形を利用した山城は瘠せた尾根が攻め手の数を限定し、寡兵でも守備しやすく、いざとなれば脱出もしやすい。そうして謙信の援軍など望めない壮絶な戦闘の後、三田一族は悲運の最期を遂げた。だが、時代はまさに戦国の世となり血みどろの闘いは繰り返される。永禄十二年(1569)に武田軍が小田原城攻めに向かう際に滝山城を攻撃し、この時三ノ丸まで攻められたことのある氏照は防御面で不安を抱いていた。そして天正十五年(1587)に豊臣秀吉から「関東惣無事令」を突き付けられた際に、天険の要害に築いた八王子城へと本拠地を移した。その三年後には遂に天正十八年(1590)には太閤秀吉の小田原征伐が始まり、後北条家の有力支城である松井田城、鉢形城、松山城を次々と陥落させた上杉景勝・前田利家・真田昌幸ら北国軍団が八王子城に襲いかかった。城主の氏照以下家臣は小田原本城の守備に駆り出され、八王子城内には城代の横地監物吉信、家臣の狩野主善一庵、中山勘解由家範らわずかの将兵と領民が立て籠る。しかし内応者に秘密の間道を暴露され凄惨な末路を辿って八王子城は落城。城主・氏照は小田原開城の際に、秀吉に強硬な主戦論者と見なされて切腹を命じられた。若き日に三田氏を屠った氏照は、この時すでに齢五十となっていた。

都道193号線に出て北上すると傍らに不動尊を見てすぐに平溝橋の分岐へと至る。そしてこの平溝集落が辛垣城の大手口で、西木戸という地名が今も残されている。旧鎌倉街道山ノ道は八王子城下を抜けて梅ヶ谷峠を越え、二俣尾から松ノ木峠、さらに小沢(こさわ)峠を経て名栗へと向かっていた。つまり辛垣城は街道を睨む高台に築かれていていたわけだ。氏照は辛垣城攻略の際に滝山城ではなく浄福寺城(由井城)を陣城としたとされるが、近くに鎌倉街道と言う軍事道があるのだから必然であろう。後に築かれた八王子城も当然ながらこの街道を押さえるものであった。芳賀善次郎著『旧鎌倉街道探索の旅 山ノ道』では峠に石仏が建立されていることと佐藤塚が建立されていることから、その道筋は松ノ木峠を経て成木街道の大指集落へ繋いでいたとしている。だが取りあえず、この分岐は高水山参道を目指して高源寺へと向かうことにしよう。説明が長すぎて半日くらい過ぎ去ってしまった感じがするものの、時間にしたら軍畑駅から歩いてわずか30分ほどで高源寺へ着く。その入口分岐には「高水山登山口」の石標が並んでいた。寺脇に鎮座するのは妙見様で、星之宮神社と称するのは神仏分離令の爪痕である。

登山口から民家までは舗装路が続くが、山道にはいると目前に大きな堰堤が聳え立つ。そして例の擬木階段が続いているが、階段の左脇に旧道が続いているのを見つけてそちらを行く。だがこの旧道も堰堤上部で登山道と合わさるので、わざわざ探す必要もないだろう。丁目石は古いものと比較的新しいものが混在している。中程の「軍畑青梅町」と刻まれた丁目石の目前にあるのが「清浄の滝」である。そしてここから少し標高を稼いで、見晴らしの良い尾根に登ってしまえば不動尊まではわけもない。雰囲気はまあまあといった感じの平溝参道であったが、940には浪切不動尊へと到着した。そして再び件の山犬像を観察すると、尻尾をクルリと巻いている。オオカミは尻尾がスッと伸びているのだが、日本犬は巻き尾を特徴とする。そしてお犬様の肖像、大口真神のお札に巻き尾で描かれてものもないはずだ。ますます興味をひく山犬像だが、じつはこの不動尊、手水舎の大天狗やカラス天狗といった造作を見ても、かなり修験道の趣がある。全盛期には御岳山の大口真神と同様に、お犬様の神札が修験の行者を通してあちこちに配布されていたのだろう。言わば行者公認の山犬像とみても良い。とまあ、人知れず留飲を下げた後は、成木街道への参道を降り再び旧鎌倉街道に合流して小沢峠を越えれば良い。だが時間もまだ早いこともあり、惣岳山の青渭神社奥ノ院へと足を伸ばしてみることにした。

しかし帰路は小沢峠越えが前提なので、御岳駅へと向かう周遊コースを使ってピストンするのも馬鹿らしい。ならば地図読みを兼ねてヒヨドリ越えよろしく谷を渡り平溝林道を跨いでしまおうと思い立つ。幸いにして1/25000地形図には破線ルートが記載されている。勿論、冬場で藪も一息ついていると見込んでのことだから、一般のハイカーにはお薦めできない。道が無いうえ急勾配の下りだから、かなり地図読みが出来ないと危険であるのは言うまでもないだろう。しばらく降ると途中に山ノ神祠が祀られていたので、里が近いなと思う間もなく集落に出た。しかし、鹿除けのネットがあるし、その先はどうやら民家の庭を抜けている様子。道は本来家を繋ぐものであるから、山里では庭先を通っているのが普通なのだ。そこで道迷いを決め込んで頭を下げながら通らせてもらう。「すると、どこから来た?」とお声が掛かったので「そこの裏山から降りてきました」と言うと、オジさん最早とんでもなく呆れ顔。集落名を聞いたら「平溝」と言っていたが、これはハイカー向きの返答で「大沢集落」が正しいだろう。日向の山腹に張り付いた鄙びた集落だが雰囲気はとても良い。そして惣岳山へ向かうことを告げると「前の林道を登って沢沿いを行けば、少し急だがハイキング道に出る。そしたら惣岳山に行けるから後は御岳駅で旨いもんでも喰って帰れば良い」と丁寧にご教授下さった。感謝しながら別れを告げた後、アドバイスを無にして申し訳ないと思いつつも直接惣岳山へと登ってしまう。時刻は1218、少し風が強いが山頂で昼食休憩とすることにした。

ところで、日地出版発行のハイキング地図『奥武蔵』をご存知だろうか?(平成12年にゼンリンに吸収合併)手持ちのものは昭和47年度版で執筆調査は坂倉登喜子と奥武蔵研究会となっている。じつはこの惣岳山青渭神社の箇所に「金神」と書かれているのだが、頂上や社付近にそれらしいものは何も無かった。少し風はあるものの馬仏山から岩茸石山への道は気持ち良く、爽快な展望を楽しんだ後は再び高水山常福院へと引き返す。前に《不動堂の裏手の広場に何かあったのだろうか?》と書いたが、前出の日地出版の地図には「高水山山の家」と記載されていた。現在はトイレが設置されているだけだが、昭和47年当時は宿泊者も多かったのであろう。そうして成木参道を降り「なちゃぎり林道」を跨いで麓の鳥居へと急ぐ。確認したかったのはそこから先で、再び林道を跨ぐと雰囲気の良い旧道が続いていた。参道一丁目の分岐は、前回参道入口傍の屋敷の御主人に教えていただいた高水山参詣路の道標に続いていることは間違いない。するともう一方は…目前の尾根のタルに目をやれば、近くを車道がトンネルを穿っている。入平集落の上にある峠は小沢峠しかない。本日一番の里山の風景には違いなく、再び成木まで足を運んだ甲斐があった。この分岐を左にとって進むと路傍に「向左 高水山道」の石道標がある。そして、前々回紹介した「右ちちぶ、子のごんげん」と刻まれた巡礼供養塔の建立された小字滝上の辻に出る。

この辻に架けられた橋を渡って庚申塔、そして地蔵尊の目前から細い路地に入る。頭上に成木街道が走っているこの細い道が、かつての旧鎌倉街道にして秩父道、そして子の権現道だ。だが階段を昇って最後の民家をやり過ごし、山道に入るものの作業道が交錯して趣が感じられないまま小沢峠へと至る。ただ山ノ神祠があるだけで、ここには峠の持つ明るい雰囲気が無い。但し、少なくとも成木側からだと登りやすい峠には違いないだろう。恐らく軍畑から続く旧鎌倉街道は伏木峠でエイグリノ峰を越え、大指集落を経てから小沢峠へ繋いだはずだ。何故なら松ノ木峠を経由するより直線的であるからである。松ノ木峠はむしろ大指集落から青梅方面へ向かう為に使われていたのではないかと思う。いずれも交通の要衝といえる峠であったに違いないが、一つの尾根のそう遠くない場所に峠が二つ並んでいるのはそう解釈するしかないであろう。ハイカーたちが手前勝手に名付けた鞍部とは違い、古くから生活に根差した峠であったことは間違いない。

小沢峠を名栗側に降っていく道にあたる小字は小沢坂で、とくに旧道の趣が残っているわけでもなく一投足で成木街道のトンネル出口へと至る。この成木街道のトンネルは、会報150号(昭和413月)に工事中であることが記されていた。トンネルと合した後は舗装路を歩いて行けば小沢バス停に着くが、沢沿いに降りて行くと、左岸に荒れた旧道がまだ残っている。但し、上の車道から投げ込まれたゴミが散乱しているので雰囲気はあまり良くない。どこでも林道の下はこんなものだが、少なくとも山で暮らす人々はこんな事はしないだろう。車道から離れると道もハッキリとしてくるが、旧道の道中なかばに8m2段の滝がある。なかなか立派な滝なので後日調べてみたものの、小字が「滝の入」ということだけで名称までは分からず、次回訪れた時に土地の人に尋ねることにしよう。そして粗末な橋を渡って再び車道に飛び出すのだが、その橋の袂に建立されている祠には「少名彦命」(病気平癒の神)が鎮座していた。かつてこの橋の下を潜ると麻疹(はしか)にかからないと言われていたそうだ。会報「奥武蔵」324号には橋本保次氏の想い出話として「橋くぐり」が掲載されている。車道に出たら10分と掛からず小沢バス停へと至る。開運橋の近くには新しいトイレが設置されているし、バス停には屋根もあるので、休憩がてらバス待ちをすることができる。到着したのは1610で、次のバスまでコーヒーを沸かして飲むには十分な時間であった。

年を越しての報告で申し訳ありませんでしたが、結局のところ、ニホンオオカミと山犬に関しては会報「奥武蔵」新年号に掲載することにしました。ところで、やはり気にかかるのは惣岳山青渭神社の「金神」ですね。金神とは「金精様」のことだとすると社のあたりに石神が鎮座しているはずですが、残念ながら見当たりませんでした。しかしながら『名栗の民俗(上)』(平16)によると《二区の和泉入と石神入の川の流れは、山際で接しており、その間の尾根の先端といえる場所にイシガミ(石神)が祀られる》とあります。『ものがたり奥武蔵』に収録された畠山重忠の伝説を今一度読み返してみると《秩父から鎌倉へ行く畠山重忠は名栗街道を往来しましたが、彼は非常な美男子だったので、街道筋の家々の女がうるさく、この棒ノ尾根の山稜づたいの裏道を通りました。ある時例のよってこの峰にきますと、杖にしていた棒が折れてしまったので、その一つを名栗側へ一つを大丹波側に捨てたので、それからこの山を棒ノ折山と呼ぶようになったというので、その棒の一片だという石が今も大丹波側のゴンジリ沢の奥にあります》と記されていますので、位置からしても名栗側に投げ捨てられたのは石神入のイシガミ様だと思われます。とんだところで伝説を垣間見ることが出来たわけですが、惣岳山青渭神社の「金神」ついての記述は見つけることが出来ませんでした。尚、小沢峠旧道の橋下(ハシカ)を潜る風習については『名栗の民俗(上)』にも収録されています。

なかなか更新できず恐縮ですが、本年もよろしくお願い致します。

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