2017年3月1日水曜日

高山不動尊から龍穏寺・1/26

【龍ヶ谷山中の夫婦岩】
下段左:稚児の墓付近の旧道より飯盛山を望む
下段右:野末張展望台の標柱にはスカイツリーの高さと同じ標高634mと刻まれている。

今回は奥武蔵研究会の山行だが、奥武蔵ハイキングとしては一般的なコース。じつはPTA時代にお世話になったママさん達も子供達が手を離れる頃となったので、そろそろ健康に気を遣うお歳頃。ハイキングに興味を抱いたようで、まずは奥武蔵研究会の山行へご同行という話になった。が、当日は前日にインフルエンザかも…という連絡があって参加したのは、年齢を重ねて厚かましくなったと宣うTさんのみ。(けして、厚かましくはありませんが…)西吾野駅には、私とTさんの他に13名の方にお集まり頂いた。そして恒例の自己紹介の後、9:10には駅を後にスタートした。

最近は高齢者のハイキンググループが多く、平日とはいえ行き交う人も少なくない。スタートがたまたま一緒であったグループに、どこに行くかと問えば高山不動だという。「それなら同じですね」と同行しながら歩いて行くと、後ろから仲間を呼ぶ大きな声。どうやら高山不動ではなく、子ノ権現へ向かう予定だったらしい。とんだハプニングだが、別グループの事とばかり笑えない。仲間と談笑しながら歩くのも結構だが、常に緊張感を携えながら歩いてほしいもの。西武秩父線の高架を潜り、登山口となる北川に架かる橋の袂の石道標を横目に見て住宅地の合間を抜ける。そして山道となるが、メンバーの皆さんは通い慣れた道のはずなので、一人先行して石地蔵がある赤坂分岐で待つことにする。すると、Tさんが萩ノ平茶屋跡辺りで追いついて来て「皆さんペースが速いって言ってますけど!」と…久しぶりに説教をくらう。

井尻へ向かう赤坂の分岐には石地蔵が建立され、脇に高山不動尊参道の古い道標も並んでいる。ここから不動堂までは比較的なだらかな道だ。この石地蔵で参加者全員を待ち、10分ほど休憩した後に西ノ山神様を経て不動堂に到着したのは1040のことであった。昼食は関八州見晴し台と決めていたので、いくらのんびり歩いたところで1120と早目のランチタイムになるのは致し方ない。冬の関八州見晴し台は、両神山は勿論、赤城山や男体山までスッキリと望むことができる。少し早いと思った昼食だが、見晴台には数名のハイカーさん達が陣取り、すでに食事を摂っていた。Tさんは昨年富士山に登頂しただけで、山に興味を抱きつつも全くの素人。PTA時代の思い出話に花を咲かせるが、しかしそれも、かれこれ10年近く前のことである。思えばバザーや周年行事などで協力いただいた役員さんたちとは共有した時間が長く、現在でも当時の正副校長先生を交えて年に数回食事会を開催している。

そんな昔話をしていると、何やら周囲が騒がしい。ふと視線を向けると枯草に炎が燃えている。どうやらご年配のハイカー夫婦が、火のついたストーブを転がしてしまったらしい。大勢で消火作業にあたったので無事に鎮火したものの、山火事にでもなったら洒落にもならない。この時期に食べる温かいカップヌードルは確かに美味しいが、サーモス500mlがあれば事足りる。空気の乾燥したこの時期は、無用のリスクは避けた方が賢明だ。さて、昼食後は関八州見晴し台からは堂平、稚児ノ墓を経て飯盛山へと向かう。関八州見晴し台は別称を関場ヶ原、高山不動尊の奥ノ院という。しかし、奥ノ院とするべき場所は他にある。確かに『新編武蔵風土記稿』高山村項には「高山不動境内の図」が添えられていて、山上に「元不動」も示されているのだが、必ずしも古代不動堂があった場所とは限らない。この絵図には「鳥居跡」(現在の鳥居茶屋付近)から少し登った所に宝篋印塔が描かれている。この宝篋印塔が不動堂脇に現在あるものならば、かつて建立されていた場所は丸山となるだろうが、関八州見晴し台の奥ノ院不動堂の建立されている場所にあった可能性もある。

いずれにしても、絵図だけでは「古代不動堂がどこにあったのか?」という疑問には答えられないが、会報『奥武蔵』387号・388号に於いて「消えた古代寺院の謎を追う」と題して堂平の位置を明らかにしている。同様に、二つある飯盛山についても407号に「飯盛山山名考」としてある掲載してあるので、興味のある方はこれらを参照していただければと思う。2017版にて全面改訂となった昭文社『山と高原地図22奥武蔵・秩父』にも、当然これらは反映されている。今やこの山域にはやたらと山名標識や地名を記したテープが目立つようになってしまったが、根拠がなければ容易く地図には掲できるはずもない。数年前まで冬場は眺望のあった飯盛山東の展望台も、すでに木々が育ってしまいベンチも無用の長物となってしまったようだ。そして大平尾根へは飯盛山東となるグリーンラインのガードレール切れ間から降るのだが、東斜面から山頂へと向かう道もつけられている。数名が山頂へと向かったので、ガードレールの内側で休憩しながらそれを待つ。

ガードレールから続く道はかつての旧道で、少し降って飯盛峠から来た秩父街道と合流する。そしてその先でさらに林道梅本線と交わる。林道からは飯盛山の山容が手に取るようだ。そして花ノ木峠から麦原方面にも道が続くが、秩父街道はじつは林道右下に並行して走っているのだ。つまり左手の道は旧道ではないのだが、歩きやすいハイキング道には違いない。もっとも、麦原方面に向かうつもりもない場合、やはり林道を歩いてしまう。しばらく車道を行くと野末張(のすばり)展望台へと至るが、定期的に整備されているので眺望は良い。12:00に関八州見晴台を出て飯盛山まで40分。そしてこの野末張展望台まではさらに30分といったところ。この展望台からは大築山や馬塲、そして慈光寺方面が一望できる。少し休憩した後、林道を離れた秩父街道は、旧道本来の趣を取り戻して龍ヶ谷へと向かう。今回のコースは初心者向けだが、勿論このまま終わるわけがない。参加者に羽賀山山頂に登りたいという人がいたので、ニノホリキリから道を逸れて立ち寄ってみる。前回、山名標示板を設置したそうだが、山頂にそれらしいものは見当たらなかった。標示板を付ける人がいれば外したい人もいる。そもそも道標ならともかく他人様の土地のはずだから、山名標示に拘る理由が分からない。

ヒグラシ岩は羽賀山南の目立つ岩で、向かいの高山街道(四寸道)が走る尾根からも眺めることができる。フリークライマーは「龍穏寺の岩場」と呼び登攀もされているが、「黒山聖人岩」程の知名度はない。「この巨岩に夕日があたると夕暮れ時で、山仕事をやめて帰宅することからその名がある」とは、龍ヶ谷在住の小沢さんからの受け売りだが、所在する場所の地名は夫婦岩。ならば、その夫婦岩を探索しようと昨年残雪の頃に探索したが見つからず、その後、訪れる機会を失ったまま今回の山行となってしまった。だから今回の山行にはその夫婦岩を探索するという目的も含まれていた。幸いにしてヒグラシ岩南側には古い林業作業道が続いている。前述の小沢さんの話では「岩の上で昼寝をしているうちに暗くなってしまった」とのことだったので、まずは張り出した支尾根を縫う作業道を辿って降ることにする。すると夫婦岩はすぐに見つかった。前回も探索しているので、所在地もかなり絞り込まれていたからだ。岩の高さは6mほどで二つ並んだ岩には1mほどの狭間がある。地名になるほどの岩なので、かつては周囲が開けていて目立つ存在だったのであろうが、現在では鬱蒼とした杉林の中に佇んでいた。

そしてすでに時刻も1430となっていた。作業道はオオダイラから来た作業道と道を併せて梅本林道に飛び出す。そこは男滝のやや下流で、龍神伝説の残る龍窟も遠くない。だが、龍穏寺でトイレ休憩した後にすぐに上大満バス停へと向かうことにする。龍穏寺からバス停までは30分ほどだが、悠長に歩いているわけにもいかなかった。この路線バスの本数も年々減らされているし、それが平日となれば尚更だ。そして1530のバス到着5分前にバス停へと辿り着き、無事に解散することができた。

参加された皆さん、どうもお疲れ様でした。奥武蔵再発見シリーズは続きますので、またの参加をお待ちしています。

0 件のコメント:

コメントを投稿